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新潟県
「北前船」が往来する新潟湊。米蔵が並び商人が行き交う境内。白山神社の春まつりともなれば、古町芸妓たちは華やかな衣装を競いながら、揃って参拝参詣をしました。この日だけは知り合いに会っても決して口を利くことなく、遅れたりしゃべったりすると、その1年はお客さんが減り商売に響くとされていたため、口を一文字に結んで白山神社へ進んでいきました。
日本三大花街の一つに数えられ、京都祇園や東京新橋と並び称された新潟古町の芸妓の華やかな姿を一目見ようとする人々で境内はたいそう賑わいました。
古町の移り変わり
古町は、江戸時代の初期、本町と呼ばれていました。現在の本町は、あら町または新町と呼ばれていました。
古町5・6は旅籠屋、古町7は塗り物・紙・瀬戸物などの専門街でした。
明治17年、古町6に3階建ての勧商場(デパートの前身)などができ、明治22年の市制施行後、古町は商店街として発展しました。
明治末に古町5・6に夜市が開かれ、大正3年に電気館(活動写真館)ができると、さらに人気が高まって北陸有数の商店街へと成長しました。
盆の花市、歳末のご歳市には、近在はもちろん、遠くの町から来た人たちで賑わいました。
江戸時代の新潟町の庶民の楽しみ
江戸時代の新潟町の庶民の夏の楽しみを描いた絵です。七夕の日は湊祭りです。昼は町内ごとに屋台を曳いて練り歩き、夜は燈籠を担いで日和山道から浜へ出ます。その灯火は遠く佐渡からも見えたといいます。この祭りが終わると間もなく、樽きぬたの音とともに、待ちわびた盆踊りがやってきます。十四日の晩から五日間、老若男女思い思いの仮装をして、ここをせんどと踊り歩いたと伝えられています。
花街とは
宴席に出て、踊り、唄、三味線などでもてなす人を芸妓や芸者といい、芸妓を呼べる料亭等が集積している都市の一画を花街と呼びます。また、場所と料理を提供する「料亭(料理屋)」、場所(座敷)を提供する「茶屋(待合)」、芸妓が籍を置き、居住する「置屋」を三業といい、花街は三業地とも呼ばれます。花街は和服、和食、日本舞踊、純邦楽、茶道、華道、書画、骨董、数寄屋風建築、和庭など、日本の伝統文化を包括的に継承する稀有な場所です。
歴史
新潟町は1,635年ころに現地に移転しました。当時、運河として町中に巡らされていた堀は埋められましたが、街路の名称として残っています。明治後半に郊外に新設された遊郭に芸妓が移りました。これに伴い、古町通8-9番町に並行する東新通、西新通を中心に、現在に続く芸妓の花街が成立しました。
特徴
新潟の中心部は戦災や自然災害による被害が限定的だったため、戦前の建物が多く残っています。地区内の鍋茶屋と、隣接する西大畑の行形亭は全国的に有名な料亭で、国の登録文化財です。8番町側の東新通は鍋茶屋通りとも呼ばれます。古町花街では今も13軒の料亭と25名の芸妓が営業しております。京都や金沢の花街は茶屋街ですが、古町花街は歴史的景観が残る料亭中心の花街として全国随一です。
柳都新潟
今も料亭が建つ古町・西堀界隈を歩けば、いにしえの人々が築いた花町文化の香りが確かに匂い立ち、息づいているのを感じます。連綿と流れるときの中で培われた、柳都新潟ならではの華やかさ、季節の移ろいを雅やかに演出します。その中で麗しの華でもあったのが新潟芸妓です。新潟芸妓・古町花柳界の歴史は古く、徳川時代にさかのぼります。以来、名妓、美妓の数は何千人にも及ぶといわれています。 当時まさに柳都新潟で、幕末の志士は「八百八幡、涼しきこと水に似たり糞をかかぐも七十二橋」と情緒を歌っております。
堀と柳
江戸時代、新潟の堀は東西に片原(東堀)・寺町堀(西堀)、南北に北から御祭堀・広小路・新堀・新津屋堀・白山堀(一番堀)があり、柳が植えられていました。
天保14年(1843年)、徳川幕府が新潟を上知した際の初代の奉行川村修就により、中国の西湖から長崎経由で運ばれたしだれ柳も植えられ、信濃川から米俵や薪炭を積んだ舟、物売りの舟が、のどかに往来していました。
「堀と柳の都」とうたわれた新潟の町は、明治の半ば、市内を流れる堀は30を数え、そこに架かる橋は、100本をはるかに超えていました。
明治の文人巌谷小波に「川がわや 橋はし柳 柳かな」と詠まれた新潟の堀は、大正時代の大河津分水の完成や、天然ガス採掘による地盤沈下などの影響により、運河としての機能を果たさなくなり、昭和39年の新潟国体を機に埋められ、広い道路に生まれ変わりました。
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