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新潟県
新潟町の堀
明暦元(1655)年、信濃川の中州だったこの地に新潟町は移転してきました。そして新しい町並みが整えられるとともに、町には信濃川に並行して寺町堀(西堀)と片原堀(東堀)が貫き、その2本の堀と信濃川を結ぶ御祭堀、広小路堀、新堀、新津屋小路堀、白山堀の5本の堀が掘られました。これによって町なかのいたるところへ船を乗り入れることができ、新潟は湊町として発展してきました。また、江戸時代から堀端には柳が植えられ、堀と柳の組み合わせは、新潟町を特徴づける景観でした。
姿を現した西堀の痕跡
西堀は江戸時代、寺町堀と呼ばれていました。信濃川から一番遠い町はずれにあり、西側には堀に沿って多くの寺が並ぶ寺町がつくられました。明治初期、堀の護岸は木材でおおう木柵で整備されましたが、やがて木柵は傷み、護岸が崩れるところも出始めたことから、明治20(1887)年頃から石の護岸に変えられました。
平成30(2018)年に西堀通1番町付近の水道管埋設工事の際に堀の護岸と思われる石材が見つかりました。
これらは埋め立ての直前まで堀を形づくっていたものと考えられます。
昭和39(1964)年までに堀は埋め立てられ道路に変わり、堀は西堀、東堀などの地名に残るだけとなりました。発見された石材は、かつての堀の存在をしのばせています。
400年の歴史を秘めた新潟寺町
永禄11年(1568年)の上杉謙信の書簡に、新潟という地名が出てきます。これは、謙信にそむいた村上の本庄繁長を攻撃するため、謙信が部下に当てて出てきた書簡です。
このことから、新潟という地名が一般に使われ、すでに交通の要地となっていたことが推測されます。
永禄11年頃すでに、善導寺、長善寺、不動院が開基し、次いで元亀・天正年間に真浄寺、法音寺、長照寺、宗現寺、本覚寺が開基、その後、24の本寺と18の前寺・末寺が甍を並べるまでに至り、明治初年、西堀と町名改正になるまで、寺町と呼ばれ、しだれ柳の堀端に、新潟人の魂を守り続けてきました。
江戸時代の新潟町には、奉行所のほかに、町会所という役所がありました。
現在の第四銀行本店のところに町会所があり、町の有力者が、自治的な行政を行っていました。現在の本町7に面して町会所の表門があり、東堀前7に面して9メートル近い鐘楼があり、その屋上の鐘が「時の鐘」と呼ばれ、町民に時を知らせていました。
明治6年には、本町7の町会所の場所に、いちはやく新潟1等郵便役所が開設されました。その後、新潟1等郵便局と改名され、大火により西堀6・本町7と場所を変え、明治45年に東堀7の現在の新潟中郵便局の場所に移転しました。
また明治7年には、町会所の建物を利用して、東堀前7に、全国で4つめの国立銀行として、第四国立銀行が開業しました。
本町と柾谷小路の交差点には、今も道路原標があり、江戸時代から新潟町の中心でした。
江戸時代の柾谷小路の幅は約6mでした。
明治19年に万代橋ができてから拡幅され、昭和の大拡幅により、現在の道路幅になりました。
江戸時代の本町は、穀物、呉服太物、塩干物等の商品を扱う店のみが許され、それが本町の問屋街として昭和の初期まで続きました。
明暦元年(1655年)に、東堀、西堀をはじめとした在来の堀が整備されると、新津屋堀(横二番堀)に、近郷近在から名産物を載せた小舟が集まるようになり、自由市場が出現しました。
明治41年の大火まで、柾谷小路は万代橋から西堀まででした。そして、江戸時代、現在のNEXT21ビルと三越デパートにかけての場所には、奉行所がありました。現在の西堀通は、当時、堀でしたので、橋を渡り奉行所に行き来しました。
明治維新後、新潟県庁に変わり、明治13年の大火で類焼後、区役所が建てられ、明治22年の市制施行により初代市役所となりました。明治41年の大火後、第2代市役所は、NEXT21ビルの位置に建てられ、三越デパートの位置には警察署が建てられ、柾谷小路は大畑の知事公舎付近まで延長されました。その後、昭和8年の火災と昭和30年の大火で消失し、3代目と4代目の市役所に建て替えられました。市役所は、平成元年に学校町通に新築移転するまで、同じ場所にあり、市政の中心となっていました。
また、昭和12年に警察署跡地などに建てられた6階建てのデパートは、当時県都を象徴する高層ビルディングでした。
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