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新潟県
人情横丁と浦安橋
新潟はかつて堀とハシの町で、本町中央市場(人情横丁)があるこの地も堀が通っていました。1650年代半ばころ、旧新潟町が現在の市街地に移転し堀が作られ、寺町堀(西堀)片原堀(東堀)が川に並行して通り、2本を結んで東西に白山堀、新津屋小路堀、広小路堀、御祭堀(五菜堀)が、少し遅れて新堀が掘られました。1875(明治8)年の記録によると、当時の新潟町の堀は27本延べ約12キロもあり、堀に架かる橋は1883(明治16)年で133本あったそうです。
人情横丁に遺構がある浦安橋は、新津屋小路堀と上大川前通を交差する橋でした。造られた時期は明らかではありませんが、1843(天保14)年には存在していたことがわかっています。川幅の広い白山堀には米が運ばれ、新津屋小路堀は野菜などが入り、新津屋小路堀を挟んだ本町通で朝市が立ち、農家の女性たちが野菜や穀類を売っていました。明治時代に入り町が拡大して、堀は伸び、橋の数が増えたこともあり、番号を付して分かりやすくするため1872(明治5)年、新津屋小路堀は「2番堀」と改称されました。
浦安橋は1928(昭和3)年に鉄筋コンクリート製に改築されました。当時の新潟新聞に「架替なって盛大な開通式」との見出しで記事が掲載され「地元の寄付金と市費を合わせて金3千円で鉄筋コンクリートに改築がなった」とあります。開通式には新潟市長や市議会議長のほか、初代萬代橋の実現に尽力した八木朋直氏も参列し、浦安橋の完成を祝して詠んだ歌も紹介されています。
しかし、新たな浦安橋の活躍も長くは続きませんでした。戦後の鉄道や自動車の普及、上水道の整備などで堀の役割は次第に失われ、2番堀が1950年(昭和25)年に埋め立てられたことで、浦安橋も橋として役目を終えたと考えられています。その後、橋の一部はブロック塀と金網に囲まれて、人情横丁の一角にひっそりと遺されましたが、2012年、市場の組合員などにより、それらが取り除かれ、橋の柱部分と橋面の一部が約50年ぶりにその姿を現しました。
人情横丁は堀の上の商店街
人情横丁(本町中央市場)の創立は1951(昭和26)年10月。2011年に60周年を迎えました。戦後、新潟市は衛生上の問題や増大する自動車交通に対応するため、堀の埋め立てを行いました。2番堀と他門川の間を埋めた跡地は本町通上市場の整備に当てられることになり、本町通りで商いをしていた露天商たちがここに移転して店を開きました。これが人情横丁の始まりです。
当時は生鮮食品中心の約80店舗が軒を連ね、年末などは拡声器で誘導するなど大勢の人が集まり、前に進まないほど賑わいました。現在、人情横丁には新津屋小路の約160m沿いに30数店舗が並びます。地元に愛される店が多く、買い物やお土産、旬の食材や干し物、乾物、茶、菓子、雑貨に至るまで手に入り、食事ができる店舗もあるのが魅力です。
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