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沖縄県
もう今年も10月になろうかとしています。
日中は、真夏と変わらない暑さの沖縄ですが、そんな沖縄も朝晩は若干、過ごしやすくなってきました。
真夏の夜の独特な湿度が和らいできています。10月の平均的な日の出は6時30分頃。日の入りは18:30頃と昼と夜がちょうど半々の季節になってきました。
涼しくなると増えてくるのが「まち歩きガイド」の申し込みです。
コザまちまーい
http://koza.ne.jp/machimai/
1回目夏の風物詩エイサーについて(沖縄市)
2回目コザってどこ?Where is KOZA?こざってぬ〜やが?
について紹介しましたが、第3回目の今回はぐっと時代が遡り琉球王国時代です。
沖縄市の琉球王国時代のお話です。
ここで少し、現在までの沖縄市の移り変わりを。
戦前までは、沖縄市はのどかな農村地帯で越来村と美里村に別れていました。
沖縄市は、戦後できた街で「沖縄市」という名前は市民からの公募で決定しました。
つまり、戦前はなかった地名なのです。今回は「越来村」の王国時代の紹介です。
越来村は正確には戦後すぐ1946年から1956年まで越来村でした。米軍基地嘉手納基地があり、本格的な基地建設が始まると沖縄中から仕事を求めて県内の主要な米軍基地の周辺には人々が集まります。また、基地内に自宅や土地を接収された人々も、帰ってきています。
空前の軍作業のお仕事ブームです。
その頃、基地の建設のために沖縄で主流だった木造建築ではなく台風に耐えられるコンクリート建築が盛んとなり圧倒的に人も技術も足りませんでした。
アメリカ軍は本国より技術者を呼び寄せます。また、沖縄から近いフィリピンからも英語が話せると言うことで沖縄にやってきます。彼らは技術者で沖縄の人より高い給金で雇用されていました。
なので、基地の周辺の建物の雰囲気が、アメリカと東南アジア混じったまさにチャンプルーな雰囲気の街となりました。
人が集まると物が集まります。
沖縄市は戦前までは8000人ほどの村だったのが、復帰の直前1970年には58,658人まで増えていました。現在は、約14万人の人口となり、現在は県下第二の都市となっています。
琉球王国は、1429年(宣徳4年・永享元年)、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと考えられています。これまでは、三山時代と呼ばれる地方豪族が、それぞれ自分の地域に要塞兼拝所である城(グスク)を作っていました。黒潮が島の横を流れており、交易は盛んな小国。廃藩置県まで450年間、琉球王国として存在していました。
そんな中、越来グスクが誕生します。(グスクとは沖縄のお城の呼び方です)
実は、築城の正確な年代はわかっていませんが15世紀頃と言われています。
琉球王国以前のグスク時代という時代の終わりには、北の北山、浦添を中心とした中山、糸満を中心とした南山に分かれており、中山が琉球王国を首里に置くと、時の王尚巴志は七男の尚泰久に越来グスクを与え、尚泰久は越来王子として居城していました。越来グスクはいわゆる首里の出城のような存在だったことが伺えます。
越来城は中部地域の要所となり、住んでいる人は王位継承権のある人、王族に近い人、などが住んでいました。
三山時代は、意外ではありますがここ沖縄も戦国時代でした。
いつ、城が取られるか攻められるか。要塞化していた城の構造として有名なのが北部にある今帰仁グスクがあがります。
その北山に睨みをきかせていたのが越来グスクで、三山が統一された後も北山の残党に動きに目を光らせる必要がありました。
当時の越来グスクは現在よりもさらに高い場所にあったと言われ、沖縄本島の東西を見渡し、かなり遠くまで景色が広がっていたそうです。
そんな役割を持ち、また周辺にも大小ある豪族の建てたグスクも多く、東には勝蓮グスク、王の忠臣となった護佐丸の築城した座喜味グスク(のちに中グスクへ移動)があり、不安定な時代を見守ります。
尚泰久が入城する頃には既にあった越来グスク。もしかすると15世紀以前からあった可能性もあるお城です。
実は、越来グスクは城跡公園としてずっと整備はされていますが、地元の沖縄市の人でも知らない人がいたりします。
時代に忘れられてしまったお城でした。
戦後の復興が落ち着くと、越来グスクは城趾公園として整備されます。そして拝所も整備され現在は、地元の方達が散歩をしたりゲートボールをするなどとてものんびりとした雰囲気の公園となっています。
越来グスクには、琉球王国時代の中でも有名な「尚泰久王」が王子時代に住んでいたお城ということで、存在も華やかです。
また、尚泰久の娘で美女と謳われた百度踏揚(ももとふみあがり)は、初め勝蓮グスクの阿麻和利に嫁ぎ、その後夫が滅ぶとその時武勲をあげた武将の大城賢雄の妻になり、賢雄とともにこの越来グスクに住むことになります。
琉球王国は第一尚氏と第二尚氏の時代があり、この二つの王統に血縁関係はありません。
そう、クーデターが起きたのです。
第一尚氏側で武勲をたてた賢雄も、逆臣として追われる立場に。百度踏揚は弟が落ち延びた先へと避難。賢雄は越来グスクを出て、協力者と体勢を立て直そうとするも及ばず、越来グスクに地理的に近い知花グスクへ逃げるもそこで焼かれてしまいました。
第二尚氏王統になると、王となった尚円の弟尚宣威が越来王子として居城。尚円が逝去すると尚宣威が次期王として首里に上がりますが、なんと国王の神託を受ける儀式の日に、まだ幼い尚円の子尚真が王の神託を受けます。
失意のうちに越来に戻るも、グスクには戻れず近くの殿内に住んでいましたが、なんと半年後に亡くなるのです。
睨んでいた北山の動きも落ち着き、中央集権を進める第二尚氏の琉球王国の中で、越来グスクは徐々にその役目をを終えていきます。
ざっと書いても、盛りだくさんのストーリーです!
特に、尚泰久は万国津梁の鐘を作り、国の内外に琉球王国の重要性と未来を描いたことは有名で、現在の沖縄でもこの「万国津梁」(世界中の橋渡しをする重要な場所)をキーワードにしています。2000年に開催されたいわゆる沖縄サミットも、名護市に作られた「万国津梁館」で行われました。
また、尚泰久が居城する以前からも琉球史には「◯◯を越来王子とする」という記録が残っており、築城は15世紀とありますがおそらく、それよりもっと古くからグスクとして存在していた可能性があるのです。
そんな歴代の王の中でも、有名な王様となる人が住んでいた場所が越来グスクなのです。
-次のページへ続く-
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